・・・・・工事中靖 国 神 社<靖国の生い立ち> 1866年(慶応2年) 孝明天皇崩御、明治天皇即位 1867年(慶応3年) 大政奉還、王政復古の令下る 1868年(慶応4年) 五箇条の御誓文公示、戊辰戦争勃発、9月8日明治に改元 1869年(明治2年) 東京遷都 大村益次郎ら九段坂上三番町旧幕府歩兵屯所跡に招魂社建立の地を選定。 「東京招魂社」創建、仮殿で第一回合祀祭、永世高一万石下付。 1872年(明治5年) 村に不学の戸無く家に不学の人なし=学生発布 本殿竣工し、正遷宮祭を行う(祭主は陸軍大輔山縣有朋)。 神明造りにならい屋根に銅版を葺く、総建坪65坪。 1877年(明治10年) 西南戦争 天皇皇后より幣帛料を賜わり、神鏡を調整して神前に奉安。 1879年(明治12年) 大正天皇ご誕生 「東京招魂社」を「靖国神社」と改称、別格官幣社に。 1882年(明治15年) 軍人勅下賜 「遊就館」建設。 靖国神社は1869年に東京招魂社として創建されたのが始まりだ。 1868年1月の「鳥羽・伏見の戦い」にはじまった戊辰戦争は、上野、会津と激戦地を東に移しながら、翌年5月の函館・五稜郭開城によって、官軍勝利という一応の終結を見る。 その間、戦火に倒れた官軍側の兵士たちの霊を慰め、魂を鎮めるという目的のもと、江戸城や京都・河東操錬場などにおいて戦没者のための招魂祭が営まれた。また、官軍に参加した各藩を中心に、戦没者のための招魂社も設けられた。 この戦争により、官軍は3500人を超える戦死者が出た。 明治新政府は、それらの人々を1箇所に祭祀するための施設を建立するという方針のもと、1869年6月、当時の東京府から受領した九段坂上の土地に「東京招魂社」を築き、招魂式を行った。(第一回合祀)このときはまだ仮殿であり、1872年に本殿が完成。 東京招魂社では、当初、戊辰戦争における4つの記念日に例大祭を行っていたが、なかでも宮中からの勅使が参向する正月3日の例大祭は盛大であった。 祝砲が轟き、花火が上がり、競馬や海外のサーカス一座の公園を見ようと多くの人が詰め掛けた。 創建後の東京招魂社には、1874年の「佐賀の乱」、同年の「台湾出兵」、1877年の「西南戦争」などで新たに戦没者となった人々が合祀されたほか、1853年のペリー来航以来、命を落とした勤皇の志士たち(幕末殉難者、維新殉難者)や、各地の招魂社に祀られている人々も合祀されるようになった。 社殿が整えられるにつれ、戦没者を弔い、慰霊するための国の中心的施設にふさわしい社号が望まれるようになった。その機運を受け、1879年、社号が「靖国神社」と改称され、「別格官幣社」として格付けされた。 *「靖国神社」の「靖国」とは「国を安(靖)らかにする」という意味で、中国の歴史書である「春秋左氏伝」第6巻秋に在る「吾以靖国也」から採られ、明治天皇によって命名された。 <靖国に祀られた人々、祀られなかった人々> 「靖国神社」は上記のような理由により、官軍に敵対する者は祀られていない。 例えば、上野彰義隊(上野の寛永寺を拠点に抵抗)や会津白虎隊(会津藩士の子弟たちで構成)、西南戦争の雄・西郷隆盛などが有名。 さらに日露戦争の功労者・東郷平八郎元帥、乃木希典大将も戦死者ではないという理由で祀られていない、乃木大将は、明治大帝崩御の際、自決、その後、町の人々が乃木大将の素晴らしさを称え、「乃木神社」を創立する。 東郷元帥も「東郷神社」に祀られている。 2004年10月17日現在、靖国神社に合祀されている対象者と、合祀柱数は以下のとおり。 [合祀対象] 一、軍人軍属 1 戦地、事変地および終戦後の外地において、戦死、戦傷死、戦病死した者。 2 戦地、事変地および終戦後の外地において、公務に基因して受傷罹病し、内地に帰還療養中これにより死亡した者。 3 満州事変以降、内地勤務中公務のため受傷罹病し、これにより死亡した者。 4 平和条約第11条により死亡した者。(サンフランシスコ講和条約) 5 未帰還者に関する特別措置法による戦時死亡宣告により、公務上負傷し、 または疾病にかかりこれにより死亡したものとみなされた者。 二、準軍属およびその他 1 軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷または疾病により死亡した者。 ア 満州開拓団員 イ 満州開拓青年義勇隊員 ウ 沖縄県一般邦人 エ 南方および満州開発要員 オ 洋上魚漁監視員 2 特別未帰還者の死没者 ア ソ連、樺太、満州、中国に抑留中死亡した者 イ 戦時死亡宣告により死亡とみなされた者 3 国家総動員法に基づく徴用または協力中の死没者 ア 学徒 イ 徴用工 ウ 女子挺身隊員 エ 報国隊員 オ 日赤救護看護婦 4 船舶運営会の運航する船舶の乗組員中死亡した者 5 国民義勇隊の隊員でその業務に従事中死亡した者(広島原爆死亡者) ア 学域組織隊 イ 地域組織隊 ウ 職域組織隊 6 旧防空法により防空従事中の警防団員 7 阿波丸(交換船)沈没のより死亡した乗員 8 沖縄の疎開学童死没者(対馬丸遭難) 9 外務省等職員 ア 関東局 イ 朝鮮総督府 ウ 台湾総督府 エ 樺太庁 「合祀柱数」 維新前後殉難者 7751柱 日清の役 1万3619柱 西南の役等 6971柱 台湾の役 1130柱 北清事変 1256柱 日露の役 8万8429柱 第一次大戦 4850柱 済南事変等 185柱 満州事変 1万7176柱 シナ事変 19万1250柱 大東亜戦争 213万3915柱 総数 246万6532柱 <戦前戦後の靖国神社> GHQは我が国敗戦後、軍国的神社は廃止すべきとの立場に立つ。 これに対し、権宮司 「つぶされたらおしまいだ(米国の態度が怖い)」 日米戦争終結1年前 (米国国立図書館) 靖国に関して PWC(戦後計画委員会)の文書には 占領に関して ・軍国主義的、攻撃的な国家のカルトである(国家神道は太平洋の安全を脅かす) 但し、伝統的神道は問題ない。 <美山要蔵 陸軍大佐> 美山日記 8月~10月 8月23日 靖国祭りを行う方向、陸軍省は大祭は行う予定 合祀者は陸海軍が選定 *臨時大祭・・・招魂と合祀(陛下の裁可、陛下自ら参拝) 8月27日 東条大将 用賀にて 東条大将の言葉 「靖国神社の処置、永久に存続す、御親拝も当然あるべし」 = 国体護持 「戦争終結の切腹者も合祀すべし、犬死とする勿れ、人心安定上の人心一和上必要なり」 これにより自決は合祀対象にはならない規定が崩れる。(⇔昭和殉難者) 昭和20年8月30日 マッカーサー到着 「超国家主義的、軍国主義的組織、及び、運動が宗教の仮面に隠れることは許されない」 武将解除といわゆる戦犯の逮捕を行う。 対敵諜報部 エリオット・ソープ准将 9月10日 東条宅へ入り逮捕 9月12日 米兵100名が靖国へ(この頃、米兵は靖国の焼き討ちを主張) 臨時大招魂祭 (陛下の裁可が必要) 11月12日 陸海軍大臣から総理大臣へ文書、大招魂祭の勅許が下りたと明示 これに対し、E・ソープが強く反発するがGHQ内部でも意見は割れ 大招魂祭が終わってから様子を見て靖国をどうするか決めてもよいという方針で固まる 陛下のスケジュールをGHQに提出し、予定通り行うことで決定。 午前10時 皇居出発 (陛下は前日、風邪のため寝込んでいた) 「明日の行事は大切なれば、ぜひ行く」(陛下のお言葉) GHQ代表者も参列、あわせて3万人にのぼる。 当日、GHQに対する国家イメージもあり、軍人は背広で参列した。 午前10時15分 陛下参拝、招魂者は30万人で、計300万人を超えた。 昭和20年10月6日 ワシントン 米国務省発言(ラジオ) 「日本が二度と世界平和への脅威とならないようにせねばならない。神道が個人の宗教である限り干渉しない。しかし、国家神道は廃止すべきだ。人々は国家神道への支援を強制されず、学校に神道の場は無い。日本の軍国主義、超国家主義は全面的に抑圧する。」 この発表があり、マッカーサーは国家神道の全面廃止へ向かう CIE(民間情報教育局)・・・GHQの中にあり、日本人の教育、宗教改革を担う 宗教課のウイリアム・バンス課長は軍国主義を除去しつつ、信教の自由を確立せねばならないというジレンマに陥る このとき、横井時常権宮司はGHQと交渉、GHQをうまく丸め込むために GHQの描く純粋宗教の姿でいこうとする、名前も変えてもいい、そこで靖国廟宮という名前まで生み出した。 戦前、神社は国家によって管理されていた、政府は靖国を宗教とは違うものとみていた 昭和20年11月6日 横井権宮司は靖国廟宮の名を持ってCIEを訪れた 横井 「国家神社から宗教色の強い廟宮へとしたい」 バンス「戦争意識を高揚するものなのか、信教の自由を束縛するものなのか、この2点が問題だ、この案はなかなか良いと考えている」 様々な案が各所から出る。 「国営の記念碑」「無宗教の施設」 昭和20年12月15日 マッカーサー指令 448号 (神道指令) ・政教分離 ・軍国、超国家主義の廃止 ・信教の自由により靖国は他の神社と同様の立場となり存続へ <国家管理から宗教法人へ> 昭和21年 天皇の人間宣言 同 4月 GHQからの通告 (昭和天皇の靖国参拝を認めない) この頃、靖国は戦没者の招魂、合祀を進めようとしていた (合祀に陛下は絶対不可欠) 横井権宮司 「皇族さんと16の御紋は取り除けとか、勅使はいかんとかいって皇室とのつながりを遮断しようとした。私は陛下のご参拝はどうしても、臨時大招魂祭にはされたけど、参拝がないわけです、靖国神社には」 バンスからCIE局長へ 「天皇の靖国の大祭への参拝は私的であっても認められない」(日本政府が指示したと書かれている) Q,神道指令が出た後、なぜ天皇陛下の参拝が禁止されたのか? バンス「あれは天皇自身が決めた」 Q,天皇は参拝されたくなかったのか? バンス「天皇は物事を穏便に運びたいと考えたいたのでしょう、また対日理事国にはこういう声が多かった、アメリカは日本に寛大すぎると」 「マッカーサー司令官が私に尋ねたことがあります(日本における米国の占領を人々はどう考えているか?)と。私は答えました、(オーストラリアや他の2,3の国々は批判的に見ています)と。そしたら次のように司令官は答えました。」 マッカーサー「やつらは共産主義だからな」 昭和21年9月 GHQは合祀祭禁止を通告する バンス「このまま合祀を進めることに異論が出ている」 横井 「重要なのは靖国の存続である。神社の存続を危うくするものならば儀式を廃止してもよい」 同 11月 文部省宗教課・・・靖国は軍国的神社宗教法人なので固有地を認めない。土地の差し押さえ マッカーサー指令 宗教団体が使用中の固有地の処分に関する指令 靖国の自滅を待つGHQ 政教分離により宗教法人となった靖国、これを今となって廃止例を出す事は信教の自由を掲げるアメリカには難しく、ジレンマに陥る。そこで財産、固有地を押さえ自滅を狙うこととなる。 横井権宮司 「靖国を守るには自給自足をせねばならん、靖国周辺を歓楽街にしようと考えた。映画館、美術館など。神社の境内にあった戦利品は中・蘇にけしからんということで撤去を求められる、レリーフは隠した。」 昭和22年 御霊祭り これにより慰霊の平和的な祭典としての位置づけができた(GHQへ) 横井「粘れば自然と存続することが出来る」 請願書が全国から届き、靖国神社存続 (アメリカ国立図書館記載) 昭和25年 警察予備隊創設 <靖国神社の将来に対する見解> 存在を認めるべきであり廃止はかえって問題を起こす。(GHQ宗教課ウイリアム・ウォダード調査官) CIEの結論としてウォダードメモには 1、数百万にのぼる遺族の反対が予想される 1、信教の自由を尊重することにGHQ自らが失敗したと批判を受ける恐れ 1、1949年の状況の変化(共産圏の拡大) GHQ宗教課 昭和24年覚書にて1945年~46年の間に軍国主義的神社は廃止すべきだったと書いている。 昭和26年9月 靖国への固有地譲渡を認めた。 昭和27年 占領終結 陛下の参拝復活(昭和50年まで8回参拝) 現在、陛下は参られていないが、年2回陛下の遣いである勅使が派遣されている。 東条の言葉を受けて美山大佐は厚生省に入り、合祀に対して尽力することとなる。 <合祀への道> 合祀・・・霊璽墓に名を載せられ他の戦没者にあわせ祀られ神となる *霊璽墓(戦没者を記した名簿の事) 戦前中は国家神道であり、陸海軍省の神格審査、陛下の裁可を経て決定 憲法20条 政教分離 昭和22年 全国戦没者遺族大会 日本遺族会発足、国の手で靖国に英霊を祀って欲しい、合祀を求める 厚生省引揚援護局が検討に入る 昭和31年1月 神社合祀事務の体系は終戦前のモノに準じたモノに改める 今後、厚生省が決定して靖国に通知することにあらためたいとする。(国家介入) 昭和31年4月19日 合祀のための経費負担は国責負担とする 戦後合祀の仕組み 戦没者 ←←←← 厚生省 都道府県 候補者の選定 祭神名票 →→→→ 送付 靖国神社 ↓ 合祀 昭和27年 遺族援護法 公務死として年金等を国が責任を持つ *公務死・・・集団自決もあり、つまり積極的戦争参加は民間であろうと援護法徴用 沖縄は民間人5万5千人が全員靖国に合祀されている たびたび厚生省は、政教分離に反すると追及を受けるが、靖国に依頼されているだけで協力しただけと反論 執筆中 |